見聞 篠山城跡
搭載:2016/8/8
撮影:2016/8/2
ロケ地:兵庫県篠山市
国内観光の醍醐味、篠山で城巡りである。
日本の城跡、篠山城大書院に行ってきた。
篠山城とは、関ヶ原の合戦で有名な日本を代表する武将、徳川家康が平山の丘陵に築いた城である。
目的は大阪城を保有する豊臣家をはじめとした西日本の諸大名を抑える拠点とするため。
当時の主要交通網である五畿七道の一つ、山陰道の篠山盆地中央部に築城し幾多に及ぶ敵の侵攻を凌いだ。
築城年は1609(慶長14)年。
西日本で権力を持つ大名達の命令で天下普請(土木工事の依頼)が行われ急ピッチの作業でおよそ1年程で城を完成させた。
突貫工事とはいえ1872(明治6)年までの260年間崩れなかったのだから決して手抜きなどしていない堅固な城である。
以後、城は徳川譜代の大名たちに引き継がれ260年余の幕藩体制のもと篠山藩5万石の経済文化の拠点としてその役割を果たした。
明治維新以降、大書院を除く城内の建物のほとんどが取り壊されたが堀や石垣といった城の名残は当時のまま残っている。
そのことから1956(昭和31)年に国の史跡に指定され、2006(平成18)年には「日本100名城」に名を残している。
今では篠山を代表する観光スポットとして例年多くの観光客が訪れている。
それじゃ内城を見ていこう。
城の周りには犬走と呼ばれる足場が設けられている。
主に石垣の補強や城外の敵を攻撃するために使われる。
城へと続く道中には虎口と呼ばれる厳重な防御が敷かれる要所がある。
篠山城の虎口は枡形となっており、前方にある大手門と後方にある鉄門によって敵軍の侵攻を阻止していた。
道がうねっているのは枡形の内部に侵入した敵軍に城壁の上から鉄砲や弓矢などの攻撃を全方面から浴びせるため。
当然だが城壁は防御側が有利になるように構成されている。
基本、攻め手が多数になるため人数差をどう補うかが城防衛の要となる。
二の丸御殿跡。
かつて二の丸と呼ばれる儀式や執務を行う場所があったが時代の変化により建物は取り壊されてしまった。
御殿を復元するために間取図などの資料を集めたが、立体的に復元できる資料は見つからなかった。
見つかった間取図の中で最も古い資料を参考に再現されたのが平面表示の二の丸御殿である。
広角レンズが手元にないので良い写真は撮れなかった。
雰囲気くらいは伝わるかな。
埋門。
城の裏手にある門で南側へ出るのに使われる。
北側に比べると防御が手薄になりがちであり、もし敵軍が南側から攻めてきた場合はこの門を埋め立てて道を遮断して強引に侵略を阻止する。
いざ、天守台へ。
天守台頂上から眺めた景色。
高所だな〜。
篠山城には天守台はあったものの天守は築かれなかった。
城の造りが堅固すぎるため天守は必要ないと幕府が懸念したためなんだとか。
代わりに櫓を配置し敵襲がないかと城の周りを見張っていた。
見どころの一つ、大書院。
篠山城で唯一取り壊されなかった建物で、火災で焼失するまでは地元の公会堂などで使われていた。
今あるのは当時の資料を基に復元して建てられたもの。
木造住宅建築としては非常に規模が大きく、京都二条城の二の丸御殿 大広間書院に匹敵する広さだと言われている。
ここは中に入って見学することができる。
撮影も可能である。
資料展示室。
篠山城に関する様々な資料が展示されている。
篠山城の復元模型。
壮大である。
譜代大名の概要。
関ヶ原の戦い以前から徳川家に仕え大名になったものを「譜代大名」と呼ぶ。
合戦後から仕えた大名を「外様大名」と呼ぶ。
二の丸御殿の間取図
この資料を基に外にあった二の丸御殿跡が再現された。
二次元特有の平面図なのでこの資料のみで立体の建物を想像するのは建築家もお手上げである。
大書院内部。
上段の間へ。
最も格式の高い部屋とされる上段の間。
幅3.5間(6.9m)の大床、左右に付書院や違い棚、帳台構が設けられている。
当時の建築を再現するため屋根の造りは木製である。
部屋の格式によって天井の造りも違っている。
ぐるりと一周〜。
葡萄之間。
次之間。
上段之間。
孔雀之間。
手鞠之間と甲冑展示。
狭い部屋。
いわゆる隠し部屋というやつ。
ここに隠者や伏兵を配置したりするのかな。
大書院の立体模型と篠山城の鬼瓦。
写真が微妙…。
梵鐘。
かつて篠山城の道場にあったもの。
様々な神社を転々としたのちここ篠山へ帰ってきた。
以上〜♪
昼食は名物の黒豆パンと詰め合わせである。